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Facebookアイコンを虹色にする事について7つの論点

 アメリカにて、同性婚が認められました。崇高な事だろうと思いますし、最高裁は歴史的な判断を下したことでしょう。

www.theguardian.com

 キリスト教的世界観であったり、ヘーゲル哲学を基礎においている共同体においてこのような決断がなしえるのは困難でしょう。様々な運動や政治闘争の帰結として生じたこの法案はアメリカならではの様相を呈しているような気もします。さて、今回の記事はGay Marriageの是非でもなければ、家族制度の思想的意義でもないです。この事象に便乗する形で突如として起きた、”Facebookのアイコンを虹色に変える”行動についての批判的考察です。

  Facebook。名刺的要素を兼ね備えるこのSNSは様々な用い方をされてきました。友達と写真共有をすることもあれば、グループを作成しチャットに興じる。イベントを作成したり企業のプロモーションをおこなったりする一種の公共性を持つ場であるように感じられます。

 今回、Gay Marriageが認められたことにより、アイコンを虹色に変えるプロモーションが始まりました。*1

www.itmedia.co.jp

さて。この機能を使うことにどういう意味合いが存在するのでしょうか。賛否両論を論じていきます。

 

1 同性婚容認の認知度向上につながる

 大衆の目につくFacebookですので、この出来事についての関心は高まることになるでしょう。Social Discourse論ですね。このような記事ですら歓迎されます。止揚論ですね。無関心よりは関心を引いた方がよいということがあります。

 

2 自身の政治的スタンスの発露になる

 「私はこの結果を支持しています」というメッセージをきわめて強い形で発信できることになるでしょう。本人がどのような意図を持っていたとしても、写真という閲覧者の判断にゆだねる形になるため、このメッセージ性は消えることはありません。

 

3 ミーハーだと思われてしまう(可能性がある)

 結局この活動をどうとらえるかは受けての問題です。その人がGayであるのならば、好意的に受け入れられるでしょうが、普段からこの問題に興味関心を抱いていない人が変更するとどうなるでしょう。おそらくマイナスイメージを持たれてしまうでしょう。これはALSバケツチャレンジと同根の問題を有しています。

 

4 Facebookの活動に間接的に加担していることになる

 Facebookがどのような意図でこの活動を始めたのかは分かりません。この目的だけと論ずることは暴論です。ですので、社会的メッセージの意図も、利潤目的もあるでしょう。ここで考えてもらいたいのは、Facebookの意図に乗せられて行動しているということです。この点はハッキリさせた方がいいでしょう。

 

5 これはアメリカの話であるということ

 これはアメリカの話であるということ。それを手放しに自分のことのように喜ぶことも少し考える必要があるかもしれません。日本の現状はまだ変わっていないのですから。これから漸進的に変化していくでしょう。しかし、この盛り上がりはおそらく持続しません。その時しっかりと我々の共同体の問題として、この事実を考えることができるのか。この点は忘れないでもらいたいです。

 

6 当事者の気持ちは一体どうなのか

 卑近な例で申し訳ないですが、Gayであるとカミングアウトしている人で虹色アイコンに変更しているのはごくわずかで、実際に変更している方々のほとんどはアメリカ人でなければ、Gayでもない人々です。少数者の権利を声高に叫び、守ることはきっと大事なことなのでしょうが、彼らの本当の気持ちを”共感”することはできないです。”憐れむ”こともできないでしょう。なぜならば、経験することが出来ないからです。他の出来事と何とかすり合わせ、感情を予測することしかできないです。この点は永遠のテーマではありますね。

 

7 アイコンを変えるタイミングが難しい

 これこそまさにFacebookならではの問題です。Facebookはその人の日々の生活と多分にリンクしています。であるが故に、旅行に行ったとき、新しい生活が始まるとき、様々な節目でプロフィール写真を変えることを迫られるでしょう。その時にまた虹色のエフェクトをかける人は、本当の意味でこれを支持する人以外では、いないでしょう。つまり、一過性のものであるといいたいのです。ブームはすぎます。その時、LGBTの人々の感情はどうなるのでしょうか。日本の制度はどのようになるのでしょうか。 

 

 おそらくこれらの論点以外にも様々な論点はあるでしょう。このエントリーで最も伝えたいことは”自分の行動をしっかりと考えて欲しい”ということです。否定をするつもりも肯定をするつもりもないです。私は支持する・支持しないの思想的な二分法の中で、いくつかの方法論が存在すると思っています。デモ・政治闘争・文字による発信(まさにこのブログはこれに該当します)、そしてFacebook。その中で何を選択し、何を選択をしないのかを考えないことには無意味であると思います。