宿題代行ビジネスが何故蔓延るのか―宿題の本質から問う―

 先日のバイキングを見ていたところ、現代の小中学校で宿題ビジネスが流行っているということでした。私も気になり、検索してみますとそれはそれは多いこと多いこと。大学生が簡単に参入することができることもあるでしょうが、それでも需要が大きいのでしょう。

 

 例えば、

大学生が運営する宿題代行サービス

宿題HELP3 | 宿題代行 卒論代行 教科書翻訳 レポート代行

www.genius-assist.com

shukudai9.com

 

 など、様々な企業(?)が参入しています。具体的なお金の話をしますと、

・自由研究系(13,000~15000円)
・読書感想文(一枚400字詰め小中学生2,500円、高校生3,000円)

宿題代行屋Q

のように、小中学生には払う事ができない、多額のものとなっています。ということはただの小学生や中学生、高校生が宿題をしたくないから頼むサービスとは異なることが分かります。(しかし、他の会社の場合の価格設定ではこの意図も含まれるでしょう)

 では、どういったニーズから宿題代行の需要が発生するのでしょうか。答えは単純なもので、時間がないということでしょう。

 

時間がないとはどういうことか?

 小学校や中学校の生徒で、プロスポーツ選手を目指す場合、宿題に割いている時間等はないでしょう。朝顔の自由研究ですと、毎日つきっきりでなくてはなりませんし、読書感想文ならその本を読む時間を取る必要があります。時間があれば練習をするわけですから。故に、時間をお金で買うという次第になるわけです。宿題代行の出番ですね。

 また、中学受験や難関高校を受験する中学生の場合も同様でしょう。彼らにとって、最も大きい目標は志望校に合格することです。そのための最短経路をたどりたくなるものです。自分のレベルにあっていない宿題(計算ドリルや漢字ドリルを埋めるという単純作業等)をやっている時間があれば塾の課題や、志望校の過去問を解いていたほうがマシだという考えですね。そんなわけで、宿題代行サービスに頼むというわけです。

 

ですが、私は決してそれが健全な形ではないと思いますし、考える必要があると思います。まず、学校の意味を考えてみましょう。

 

学校とは

 ここでは、話を簡単にするために義務教育の範囲内で考えます。日本に住む人々は教育を受ける権利と義務を負います。それを実行する媒体として、学校が存在するわけです。学校は国民に対して最低限の知識を提供するとともに、社会で生きるということを教えます。前者は算数、国語といった主要科目により果たされ、後者は運動会や球技大会、各種イベントや日々の生活によって果たされていくわけです。この二面性こそ、学校という制度が複雑になってしまう根源にあるわけですね。もし前者の部分(知識提供)だけを追求するのであれば、塾や家庭教師だけでいいわけです。後者を追求するのであれば教育を放棄してしまってただ遊ばせればいいのですね。また、この二つに明確な境界は存在しません。教育を受けている最中であったとしても、それはある種のちいさな社会です。嫌いな先生や、難しい授業があれば、クラス内での連帯の意識は強くなるでしょう。このように複雑な絡み合った社会システムの一つの要素として宿題はあるのです。

 

宿題とは

 学校における宿題とは、学習のフォローの要素と社会という経験、忍耐力の研鑽といった多種多様な要素を兼ね備えた一つの仕組みです。算数の授業の後の、計算ドリルの宿題なんて、本当は必要ないのかもしれません。授業内で理解し、手法を暗記している生徒にとっては。しかし、全員がその課題をやるということ、単純作業をやり続けるということに意味があるのです。全員がその課題にチャレンジすることで、先ほどと同様、仲間意識が生まれます。それによって社会に出る準備をするということなのです。また、単純作業は驚くほど多いです。特に社会に出たらば。そのような前段階として、”つまらない作業をたんたんとこなす”ことを練習するのです。もちろん、学習効果を狙っている場合もあるでしょう。しかしながらそれだけの意図だけではないということを見る必要はあるでしょう。

 

宿題代行サービスを考える

 昔と違い、一人一人の個性を大切にしなくてはならないという風潮が現出してきました。小中高を卒業して大学にはいって企業にはいって一生を終えるということが難しくなり、個人の力が求められる時代になったのです。そのような時代のうねりの中では、社会がどうなるかわからない以上、社会性は必要ないのかもしれません。宿題代行サービスはその個性を加速させるものでしょう。しかし、そこに金銭が関わってくることは不健全であると思います。”お金を払うことで時間をかうことができる”、”お金を払うことで強制性から解放される”という価値観が広がることはおかしい。おかしくないにしても、何が正しいかわからない時期の義務教育時代にその一つの価値観を押し付けることは、子供の思考の機会を奪う事になります。

 私の一つの答えとしては、宿題のあり方を見直すということがあります。宿題にレパートリーを見出すのです。例えば、中学受験する生徒に対し、他の課題を宿題の代わりとして認める。プロアスリートを目指す生徒に対し、その活動と引き換えに認めるといったオーダーメイド型の宿題を認めるのです。もしくは、小テスト形式にするのもよいでしょう。小テスト形式にすることで、生徒は自宅学習を自分の思考でやる必要が出てきます。自主性と社会性を同時に担保することができ、かつ、先取り教育をしている生徒は最小限の勉強で済むのです。

 

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 今は転換の時代だと思います。少子化が始まり、家庭が一人の子供にかけることができる金額が上昇しています。その中で子供の知的平等を担保することや自主性を身に着けること、社会性を身に着けることは困難かもしれません。その中で、一人一人の大人が責任をもってどのような教育が考えていくことで、よりよい教育の在り方がわかるのではないでしょうか。