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努力と自己責任という宗教

日本 財政

 日本人は努力が好きです。最初は全然ダメでも、努力をすれば成功する。うまくいっている人はみんな努力している。だから、君が成功しないのは努力をしていないからだ、という風に。そしてこの言説は裏を返せば、自己責任論に結びつきます。努力を怠ったのは君のせいなんだから、それは自分の責任でしょうという風に。本エントリーはコインの裏表であるこの”日本の宗教”に接近していきます。大晦日らしからぬエントリーですが、最後まで目を通していただければ幸いです。

(2016年1月2日追記)

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このような記事が目に飛び込んできました。生活保護を受給している家庭の子供は、大学に進学してはいけないと。勿論、法律で決められているわけではありませんが、生活保護手帳別冊問題集という手引書に記載してあるようです。
まさしく、自己責任の議論が社会制度に適用された例と言えるでしょう。「あなたが稼ぐことが出来ないのはあなたのせいだ。国としては生活保護をするが、その代わり幾つかの権利を奪う。」このような論理がまかり通り、貧困の連鎖に拍車をかけてしまっています。このような世相も踏まえて、努力と自己責任という宗教を考えていく必要があります。


 

1 目的は努力に先立つ

 努力。人口に膾炙されているこの言葉でありますが、定義の上ではどのような意味なのでしょうか。goo辞書によると、

[名](スル)ある目的のために力を尽くして励むこと。「―が実る」「たゆまず―する」「―家」

とあります。すなわち、➀目的が存在することが前提にあり、➁その目的に向かって自分の持てる力を尽くすということになります。そしてこの二つこそが本質なのです。目的を持たずに力を尽くすことは努力ではないということが分かります。

 この事から一つわかることがあります。努力をすることで成功することはあったとしても、成功した人が努力をすべからくしていたかどうかはわからないということです。理由はひとえに目的意識がそこに存在していたのかどうか。目的意識というものは結果から導き出されることが多々あります。偶然の産物等はまさしくそうでしょう。意図しない、目的意識はない、しかし労力は割いていたということについては否定することが出来ないのです。よくある言説の中で「おまえは努力をしていないからダメだ」というものは少し的外れなものであるということがお分かりになったでしょうか。目的意識を持たなくてもうまくいくことはあるのです。

 とはいえ、目的を持ち労力を割くことのほうが近道な場合がおおいことでしょう。例えば、受験勉強はそれに該当しうるものです。決められた範囲内で、やるべきタスクをこなせばうまくいくのですから。しかし、受験勉強のような領域ではなく、就職活動や昇進、新しい事業といった”目的が抽象化されていて想像しがたいもの”の場合、努力は徒労に終わる場合が多いのです。

 

2 環境要因と目的意識の奇妙な関係性

 我々は残念なことに平等な生き物ではありません。憲法上におけるベーシックな人間の権利の上では平等でしょう。歴史がそれを勝ち取ってきました。しかし、ロールズが言うような機会の平等、結果の平等の双方において、等しくはないのです。

 機会の平等について先に述べますと、一人一人の足の速さはまず違います。幼少期の訓練の差もあれば遺伝による筋量の差もあるでしょう。一人一人は違った生き物なのです。また、頭脳についても差があります。一説によると家に本があるかどうかだけでその後の思考力に差がでるそうです。知的好奇心をどのようにしてもつかに関係性があるようですね。運動能力や思考能力だけでなく、それをはぐくむ家庭にも差はあります。日本のジニ係数*1は先進国の中では最下位です。すなわち、格差が最も大きいことを示しています。格差が大きいということは、教育に費やすことができる費用が違います。年収1000万円の家庭と年収400万円の家庭では習い事の量も質も変わってくるでしょう。話は経済格差だけにとどまりません。地域格差もあります。東京に住んでいたら、自分の所得に合わせて教育サービスを選ぶことができますが、地方にいくとそうは言えません。金銭的な部分だけではなく、地縁的な部分によって規定されることもあるでしょう。人は平等ではないのです。

 結果の平等はどうでしょうか。これはより一層激しいでしょう。富める者は富み、貧する者は貧する。経済的な尺度でいったらば格差は広がっていくばかりです。累進的な課税を強化することは政治的に困難ですし、仮にしたとしても、金銭でない領域、ソーシャルキャピタル面でさらなる格差が引き起こされるのです。

 このように、人々ははじまりもおわりも平等ではないのです。この事実を知らない人が殆ど、いえ、信じない人がほとんどでしょう。信じないからこそ、ギャップを埋めるために”努力”という言葉を暴力的に振り回します。

 こんな例はいかがでしょうか。

Aさんは地方出身です。そこには進学塾はなく、世帯所得も日本平均にギリギリ達成するかどうか。そんなAさんですが目標として東大に受かることを定めていました。高校1年の頃から必死に勉強をかさね、高3の頃には1日10時間を超える勉強をしていましたが、結果は不合格でした。

 

Bさんは都内の進学校に在籍しています。親の年収は非常に高く、幼少期に親の転勤に付き合って海外で3年過ごしていました。首都圏にいるから大学入試の情報量も多く、科目ごとに最高峰と呼ばれる塾に通い、勉強はそこそこでした。力を入れ始めたのは高3の夏ごろで1日平均5時間くらいの勉強で、見事合格を勝ち取りました。

 そしてBさんはAさんに言うのです。「Aさんが東大に落ちたのは努力が足りなかったからだ」と。実際に努力以外の要因が多いでしょう。目的意識は同じであり、労力でいえばAさんの方がまさっていたことでしょう(もちろんBさんも海外時代は苦労しているでしょうが)。他の要因である➀家庭環境➁情報量が決定的に違ったためこのような帰結を生むのです。環境が違えば、目的意識が同じであったとしても違った結末にたどり着くのです。先ほども書きましたが、受験よりも就職活動や昇進、恋愛、といったもののほうが環境要因によってきめられるのです。

 努力をしたか/努力をしていないかで物事を判断することは短絡的であり、同時に他人の事を考えないことにつながるのです。

 

3 自己責任論の誤謬

 少し歴史の話をしましょう。日本は元来村社会でした。農村共同体であるが故に、他者との関係性を重視しながら生きていきます。一人では生きてはいけない社会が構築され、他人の顔を伺いながら、コミュニティを構築していくというのが日本社会の期限です。江戸時代の五人組はそのような気質を端的に捉えた制度でしょう。みんな横並びになる。自分の範疇がコミュニティだったのです。その証拠に昔日本には名前という概念がありませんでした。

 牧歌的な様相も時代が下り、諸国の脅威にさらされることで変貌していきます。西洋的価値観が流入し、大国に負けないことを強いられ、科学技術の発展、戦力の増強へと舵を切ります。結果、日清戦争では勝利、日露戦争では有利な条件を得ることができました。弱小国が大国へと変貌するシンデレラストーリーです。ここに、日本の努力神話の端緒を見ることができるでしょう。努力をすれば、報われる。しかし歴史は皮肉で、その後軍部の暴走や種々の環境要因により第二次世界大戦へとつながっていきます。

 他人の顔を伺うコミュニティ、足をひっぱりあい、出る杭は打つ日本に努力神話が接合された結果、現代の自己責任論へと姿を変えていきます。ヨーロッパやアメリカでいう個人主義とは違い、個人を尊重し結果ではなく、集団から排除するための正統性として用いられているのです。そこにうまい具合に入ってくるのが”努力”です。それも目的意識を欠いた、仮初の努力です。

 自己責任論は自分が責任を取るということがもともとの意味でしょう。しかし、環境要因で大きな差があり、閉鎖的なコミュニティであり、努力を強いる社会であるが故に、歪んだ形の自己責任論へと姿を変えていくのです。

 

4 努力と自己責任という宗教を超えて

 大晦日ということもあり、できれば明るい、希望に満ちた結論で締めくくりたいと思います。努力は決して悪い事ではありません。目標を設置しなければ、人は力の入れ具合が分からないのですから。努力を自分でする分には構わないですが、人の失敗を言及する際に、努力不足という言葉を用いるのは少し立ち止まる必要があるでしょう。自己責任という言葉についてもそうです。自分で言う分には潔く好感が持てるでしょう。自分で責任を取ろうとしているのですから。他者に自己責任という言葉を用いた時点でそれは責任の押し付け合いにしかならなくなるのです。

 相手の気持ちを考える。相手の状況を考える。その考えた先に努力や自己責任という語が出てくるのであれば、それは仕方がないのでしょう。思考停止的に、宗教的に、この二語を信奉することほど毒はないでしょう。

 

 ここまでお読みいただきありがとうございます。何かご意見等ありましたらばコメント欄にどうぞ。皆さまよいお年をお迎えなさってください。

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*1:ジニ係数(ジニけいすう、英: Gini coefficient)とは、主に社会における所得分配の不平等さを測る指標。 ローレンツ曲線をもとに、1936年にイタリアの統計学者、コッラド・ジニによって考案された。 所得分配の不平等さ以外にも、富の偏在性やエネルギー消費における不平等さなどに応用される。