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好みを押し付けてはいけないことについての論考

  「好みを押し付けてはいけない」というコラムがネットを沸かせました。

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話を要約すると、
  1. 髪を染めたりピアスをつけたりのは自由なハズ
  2. ダメというのは教師が「理想の生徒像」を押し付けているから。好みの話に過ぎない。
  3. 我慢を教えるのは統制国家だ。
  4. 学校で徹底して教えるべきなのは「他人に迷惑をかけない」という公共の福祉を教えるということ
  5. 憲法13条に反している
です。しかし、この言説を手放しに認めることは出来るのでしょうか。
 

 

1 他人に迷惑をかけないという思想の源流

  自由という言葉を聞いたときに皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。好き勝手出来ることでしょうか。それとも、ある程度のルールが決められた範囲内で好き勝手することでしょうか。現代社会において自由を論ずる時、自由の意味を考えなければなりません。自由は多義語であり、論者によって自由の意味合いが変わってしまいます。
  今回の自由は他人に迷惑をかけない限り許される尊重されるべきという論でした。これはJSミルに代表される危害原則(harm principle)です。他者に危害を加えない限り、自由は尊重されるという論法です。

危害原則に照らして今回のケースを見てみる

  この原則にそって今回のケースを見てみましょう。髪を染めることやピアスは大丈夫だ。他人に迷惑をかけていないから。というのが今回の主張ですが、本当にそうでしょうか?例えば、髪を染めることによって他の生徒に対し、恐怖感を植え付けたとしましょう。ピアスも同様の効果があると思います。この場合、フランスにおいてブルカが規制されたのと同様に、危害原則の拡張が認められる可能性があります。直接的な危害だけではなく、精神的な危害です。こういう場合は制限することができます。決して教師の好みによってのものではありません。
さらに論を発展させましょう。もし茶髪でピアスの学生が幅をきかせていることがあったらば、その学校の評判は良くはならないかもしれません。ガラが悪い学校だと非難されるかもしれません。こうした場合、茶髪にしていない生徒はガラが悪い学校に通っている生徒というレッテルを貼られてしまいます。これまた危害を受けていますよね。
 

2 学校は危害原則によって運営される主体なのか

  学校は社会において、特殊な役割を帯びた機関です。国民の学力水準を伸ばす役割であると同時に、国民としての自覚を養う場でもあります。コミュニケーションを養う場でもあるでしょう。危害原則によって運営される極度のリベラルな環境というよりは、共同体主義の如く、運営される事が多いです。良いか悪いかは別にして。

   学校は行く義務があるのと同時に、選択の自由があります。私服で登校することができる学校も、茶髪が大丈夫な学校も、ピアスが大丈夫な学校もあるでしょう。何が許され、何が禁止されるかを選択する主体は学校にあります。学校の選択に異議を申し立てできるのはステークホルダーであるPTAやOBOG会、その成員である生徒会でしょう。教師の声はそこにあまり反映されません。このパワーバランスの中で校則は決まっていき、改正されていきます。

  公共の福祉だ、危害原則だという大それた概念によって律儀に作られているわけではないのです。コミュニティの成員が望ましいと思うものが校則であり、その学校を選択した以上、守るかルールを変える努力をするしかないのです。

3 好みを押し付けてはいけないこと

  好みを押し付けてはいけない。人とコミュニケーションを円滑にする上では大事な概念ですし、人を支配しないためにも心掛けるべきことでしょう。
  人は好みを押し付ける瞬間、別の好みを否定します。ラーメンの塩味が好きだ、ラーメンのしょうゆ味が好きだは論争になりますし、アイドルの推しメンはもはや宗教戦争でしょう。 
  フラットな立場だと互いに応酬できるのでまだよいのですが、上下関係の場合、支配の一環に変わってしまう恐れがあります。上位の人が好きなものは下位の人も好きにならなくてはならない、というように。教師と生徒の関係はまさしくこれでしょう。我慢を強要する事が統制国家に繋がるとはつゆもおもいませんが、可能性はなきにしもあらずですね。

 

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